▽続き・・・・・
「怒られなあかん」 所作目に焼き付け 人形に情感移す
当たり役継承決意 台本と向き合い 自分なりに工夫
「初ぢゃないか初、初」。呼ぶ徳兵衛に遊女、お初が走り寄り、「なう徳さまか、どうしてぞ」と、手に手を取って見つめ合う。
大阪・日本橋の国立文楽劇場。人形浄瑠璃文楽の11月公演で、「曽根崎心中」がかかった。近松門左衛門の世話物。太夫、竹本住大夫(83)らの浄瑠璃語り、そして三味線の響きに乗せて、中堅の人形遣い二人が悲恋の主役を演じた。
平野屋の手代、徳兵衛を吉田玉女(たまめ)(54)が遣い、恋仲のお初を任されたのは桐竹勘十郎(54)だ。
人間国宝だった吉田玉男の一周忌追悼公演とあって、生涯をかけて作り上げられた徳兵衛役を一番弟子が継いだ。お初役も、長く務めた吉田簑助(みのすけ)(74)から弟子へ引き継がれ、新コンビが誕生したのだ。
「天満屋の段」。油屋の九平次にだまされ、窮地に陥った二人が心中を決意する場面に力がこもる。上がり框(かまち)の下に隠れた徳兵衛が、お初が差し出した足で自らの喉(のど)もとをなで、死の覚悟を伝える山場だ。
勘十郎が操る人形の、着物の裾(すそ)からのぞく素足がなまめかしい。玉女は所作にこまやかな陰影を施し、情感を漂わせながら、道行きへと緊迫した空間を紡ぎ上げていく。
「後ろで師匠が『がんばりや』て応援してくれてはるようで……」
1703年、大坂の竹本座で初演された「曽根崎心中」は、江戸幕府が上演を禁じて以来、240年近く眠っていた。大阪・四ツ橋の文楽座で、文楽として復活したのは1955年。当時36歳ながら、徳兵衛役に起用されたのが玉男だった。
首(かしら)と右手を扱う主(おも)遣い、左手を担う左遣い、そして足遣いの3人で一体の人形を操るのが文楽。中でも主遣いは他2人に合図を送り、動きを決める司令塔だ。大阪に生まれ、14歳で入門した玉男にはすでに経験があったが、徳兵衛役は勝手が違ったらしい。本来なら継承される演技の型が失われていたからだ。
「情が深く、すっきりした色気のある二枚目」という造形にたどり着くまで試行錯誤を重ねた。「お初の情にどう応えるか、表情をどうみせるか、日々研究し、床本(ゆかほん)(台本)を読み直していた師匠の姿を思い出します」と、玉女が振り返る。
大阪の会社員の家庭に育った玉女が、「スカウトされて」両親の反対を押し切り、入門したのは68年、15歳の時だ。「足遣い10年、左遣い15年」の世界。徳兵衛の足と左を合わせて500回以上務めながら師の芸に触れ、修業を積んできた。
二枚目だから、座る場面で着物が崩れてはいけないと、本番の合間に乱れを防ぐ所作を教えられた。足にも感情表現が必要と知ったのは「落胆している場面なのに、足が先先いったらあかん」と、注意されてからだ。何より、主遣いとの間合いを測り、呼吸を合わせねばならない。
師は、首の傾きや表情を微妙に変化させて失意を、葛藤(かっとう)を、覚悟を表現していく。役に命を吹き込む極意を伝授してくれるわけではない。息遣いさえ聞こえる位置から、動きを懸命に覚えた。よく言われた。
「色んな人の足にいって、怒られたらええねん。怒られなあかん」
「役柄の性根」を追い求め、玉男は05年、86歳まで舞台を続けた。女形よりも重い10キロ前後の人形を扱う立ち役を、80歳を過ぎて演じたのは文楽史上初めてのこと。老いてもボウリングに通い、足腰と指先を鍛えた精進の賜物(たまもの)だったという。
6年前の大阪公演。玉女と勘十郎が交代で主役の団七を遣った「夏祭浪花鑑(かがみ)」で団七が助けた遊女を売り渡そうとする義父、義平次として二人の相手役も務めた。「よく動く簑太郎(勘十郎)君とどっしりした玉女。あれはあれでええ」と周囲に話し、文楽の将来を託していた。
その勘十郎にも、忘れられない思い出がある。簑助が遣うお初の足遣いだった30余年前、人形の足を自ら作った。「足首の形が不自然だったので足先を斜めに下げてみたら、玉男師匠が『ええがな、ええがな』と喜んでくれはった」と言う。
本来、文楽の女形人形には足がない。足遣いが着物の中から拳を突き出し、膝(ひざ)を表すのだが、「曽根崎心中」の復活公演で変わった。「天満屋の段」でお初の白い素足を見せる演出は玉男の発案だったのだ。
徳兵衛役を1136回重ね、端正で気品のある芸風を構築した名人は昨年9月、87歳で永眠した。
600人が参列して大阪で営まれた文楽協会葬。祭壇の前で、玉女は悲しみをこらえて徳兵衛を遣い、師をしのんだ。その時、当たり役を継ぐ決意も固まったのだろう。
「床本をよう読まないかん」。玉女は、人間国宝でもある住大夫からよく諭された。主遣いとしての徳兵衛役は今回が本公演で初めてだ。床本と向き合い、目に焼きつけた所作を思い返しては「玉男型」をどう再現するか、心を砕いた。
性根をどこまでつかめたか。「まだまだ及びませんが、自分なりの工夫ができるように勉強して、この役やったら僕で、と言われたい」
勘十郎は、「人形遣うのは力やないで」という助言にも支えられて演じた。ともに人間国宝の亡父と師の簑助が説いた心得と同じだが、「以前に玉男師匠からも言われて肝に銘じた」。お初の人形も、30余年前のあの足を今も使っている。
竹本座の伝統が息づく大阪でこそ発展した文楽。それぞれの師匠だけでなく、太夫も三味線も、みんなで諭し、助言し、時には叱(しか)って若手を育てるという気風が残る。
追悼公演で、演目がもう一つあった。「近江源氏先陣館」という時代物の大作だ。桐竹勘次郎(24)と吉田玉若(23)。入門して日が浅い二人の弟子が交代で同じ役を務めた。
「もっと怒られなあかん」。主役を遣った玉女はそう思う。
もう、師はいない。経験を語る側に回っている。自らも舞台を積み重ね、役の性根を探りながら。
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「怒られなあかん」 所作目に焼き付け 人形に情感移す
当たり役継承決意 台本と向き合い 自分なりに工夫
「初ぢゃないか初、初」。呼ぶ徳兵衛に遊女、お初が走り寄り、「なう徳さまか、どうしてぞ」と、手に手を取って見つめ合う。
大阪・日本橋の国立文楽劇場。人形浄瑠璃文楽の11月公演で、「曽根崎心中」がかかった。近松門左衛門の世話物。太夫、竹本住大夫(83)らの浄瑠璃語り、そして三味線の響きに乗せて、中堅の人形遣い二人が悲恋の主役を演じた。
平野屋の手代、徳兵衛を吉田玉女(たまめ)(54)が遣い、恋仲のお初を任されたのは桐竹勘十郎(54)だ。
人間国宝だった吉田玉男の一周忌追悼公演とあって、生涯をかけて作り上げられた徳兵衛役を一番弟子が継いだ。お初役も、長く務めた吉田簑助(みのすけ)(74)から弟子へ引き継がれ、新コンビが誕生したのだ。
「天満屋の段」。油屋の九平次にだまされ、窮地に陥った二人が心中を決意する場面に力がこもる。上がり框(かまち)の下に隠れた徳兵衛が、お初が差し出した足で自らの喉(のど)もとをなで、死の覚悟を伝える山場だ。
勘十郎が操る人形の、着物の裾(すそ)からのぞく素足がなまめかしい。玉女は所作にこまやかな陰影を施し、情感を漂わせながら、道行きへと緊迫した空間を紡ぎ上げていく。
「後ろで師匠が『がんばりや』て応援してくれてはるようで……」
1703年、大坂の竹本座で初演された「曽根崎心中」は、江戸幕府が上演を禁じて以来、240年近く眠っていた。大阪・四ツ橋の文楽座で、文楽として復活したのは1955年。当時36歳ながら、徳兵衛役に起用されたのが玉男だった。
首(かしら)と右手を扱う主(おも)遣い、左手を担う左遣い、そして足遣いの3人で一体の人形を操るのが文楽。中でも主遣いは他2人に合図を送り、動きを決める司令塔だ。大阪に生まれ、14歳で入門した玉男にはすでに経験があったが、徳兵衛役は勝手が違ったらしい。本来なら継承される演技の型が失われていたからだ。
「情が深く、すっきりした色気のある二枚目」という造形にたどり着くまで試行錯誤を重ねた。「お初の情にどう応えるか、表情をどうみせるか、日々研究し、床本(ゆかほん)(台本)を読み直していた師匠の姿を思い出します」と、玉女が振り返る。
大阪の会社員の家庭に育った玉女が、「スカウトされて」両親の反対を押し切り、入門したのは68年、15歳の時だ。「足遣い10年、左遣い15年」の世界。徳兵衛の足と左を合わせて500回以上務めながら師の芸に触れ、修業を積んできた。
二枚目だから、座る場面で着物が崩れてはいけないと、本番の合間に乱れを防ぐ所作を教えられた。足にも感情表現が必要と知ったのは「落胆している場面なのに、足が先先いったらあかん」と、注意されてからだ。何より、主遣いとの間合いを測り、呼吸を合わせねばならない。
師は、首の傾きや表情を微妙に変化させて失意を、葛藤(かっとう)を、覚悟を表現していく。役に命を吹き込む極意を伝授してくれるわけではない。息遣いさえ聞こえる位置から、動きを懸命に覚えた。よく言われた。
「色んな人の足にいって、怒られたらええねん。怒られなあかん」
「役柄の性根」を追い求め、玉男は05年、86歳まで舞台を続けた。女形よりも重い10キロ前後の人形を扱う立ち役を、80歳を過ぎて演じたのは文楽史上初めてのこと。老いてもボウリングに通い、足腰と指先を鍛えた精進の賜物(たまもの)だったという。
6年前の大阪公演。玉女と勘十郎が交代で主役の団七を遣った「夏祭浪花鑑(かがみ)」で団七が助けた遊女を売り渡そうとする義父、義平次として二人の相手役も務めた。「よく動く簑太郎(勘十郎)君とどっしりした玉女。あれはあれでええ」と周囲に話し、文楽の将来を託していた。
その勘十郎にも、忘れられない思い出がある。簑助が遣うお初の足遣いだった30余年前、人形の足を自ら作った。「足首の形が不自然だったので足先を斜めに下げてみたら、玉男師匠が『ええがな、ええがな』と喜んでくれはった」と言う。
本来、文楽の女形人形には足がない。足遣いが着物の中から拳を突き出し、膝(ひざ)を表すのだが、「曽根崎心中」の復活公演で変わった。「天満屋の段」でお初の白い素足を見せる演出は玉男の発案だったのだ。
徳兵衛役を1136回重ね、端正で気品のある芸風を構築した名人は昨年9月、87歳で永眠した。
600人が参列して大阪で営まれた文楽協会葬。祭壇の前で、玉女は悲しみをこらえて徳兵衛を遣い、師をしのんだ。その時、当たり役を継ぐ決意も固まったのだろう。
「床本をよう読まないかん」。玉女は、人間国宝でもある住大夫からよく諭された。主遣いとしての徳兵衛役は今回が本公演で初めてだ。床本と向き合い、目に焼きつけた所作を思い返しては「玉男型」をどう再現するか、心を砕いた。
性根をどこまでつかめたか。「まだまだ及びませんが、自分なりの工夫ができるように勉強して、この役やったら僕で、と言われたい」
勘十郎は、「人形遣うのは力やないで」という助言にも支えられて演じた。ともに人間国宝の亡父と師の簑助が説いた心得と同じだが、「以前に玉男師匠からも言われて肝に銘じた」。お初の人形も、30余年前のあの足を今も使っている。
竹本座の伝統が息づく大阪でこそ発展した文楽。それぞれの師匠だけでなく、太夫も三味線も、みんなで諭し、助言し、時には叱(しか)って若手を育てるという気風が残る。
追悼公演で、演目がもう一つあった。「近江源氏先陣館」という時代物の大作だ。桐竹勘次郎(24)と吉田玉若(23)。入門して日が浅い二人の弟子が交代で同じ役を務めた。
「もっと怒られなあかん」。主役を遣った玉女はそう思う。
もう、師はいない。経験を語る側に回っている。自らも舞台を積み重ね、役の性根を探りながら。
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